鹿児島県福山は黒酢(くろず)の生まれた町です。薩摩絶世の美女、島津斉興の愛妾・側室のお由羅は、黒酢&ところてんが大好きだったとか?!

「薩摩藩天保の改革にみる、新説・くろずの歴史」

鹿児島大学 原口泉教授「薩摩藩天保の改革にみる、新説・純玄米黒酢の歴史」鹿児島大学 原口泉教授


島津斉興とお由羅

島津斉興とお由羅について語る原口氏

 島津斉興の愛妾・側室のお由羅は、お国御前と呼ばれていて、参勤交代の時、江戸でも国元でもずっと一緒にいた人です。 薩摩藩の記録によれば絶世の美女と伝えられています。 そのお由羅は江戸生まれの江戸育ちですから天下の味を食べ尽くし知り尽くしていたことでしょう 。鹿児島の食も知っており、南国の食にも非常にうるさかったと伝えられています。

仲が良い夫婦を結んでいるのは食べ物の趣味があうということ。食が共通の話題であればずっと長く仲がいいわけです。 そんなグルメのお由羅ですから、江戸と言えば涼味を感ずる“ところてん”、それに目がない。 福山を通って江戸に行く時も、福山のところてんと味比べしたことでしょう。

薩摩藩が全力をあげて福山のいい酢をつくろうとした背景として、品質研究改良のはじめの号令が、島津斉興の「ところてんを美味しく食べる酢はできんのか」という言葉だったとすれば、江戸でも夏の涼感を味わえるおいしいところてんを知り尽くした、お由羅の一言があったとしてもおかしくはないでしょう。 そうして暑い鹿児島で共に過ごしているお由羅と斉興、仲むつましい殿様と江戸の愛妾二人の間にやがて薩摩を動かす久光が生まれるのです。

龍馬とおりょうの旅が楽しかったのも食。厚地次郎右衛門は小松帯刀との取引があるわけですから、龍馬とおりょうを福山で黒酢がもてなしたのかもしれませんね。

薩摩藩と福山港

 1840年代から約10年、薩摩に滞在し鹿児島の5大石橋などを手がけた岩永三五郎。 1840年に祇園之洲の永安橋に携わり、5大石橋では1845年に新上橋、1846年に西田橋、1847年に高麗橋と進めていきました。

実は岩永三五郎、これに先んずること天保8年(1837年)年、ちょうど250年賦無利子償還を江戸に施行した年に福山の港湾整備、福山岩下の石垣を築いていたのです。 これも調所、厚地のコンビによるものでした。

福山は重要港湾でしたから、それ以前に招聘(しょうへい:礼を尽くして人を招くこと)され、この仕事で岩永三五郎の技量を見計ったのでしょう。 厚地家が郷士になった年1792年に生まれ、島津斉彬が藩主になった1851年に没しているのも縁を感じます。

産業振興を行っていたこの時期、福山が殖産興業のきっかけだったのです。 流されない永久橋をつくるという事と港湾整備による交通革命。造船により自前の船を持つという事。 それら全体を通して天保の改革だったわけです。

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原口泉教授が新たに提唱する、福山黒酢の歴史についてご紹介します。